2015年4月30日木曜日

点がつながり線となるのではなく、実はその点はつながっている。

こんにちは、六代目彌市です(^^)/


私は、いつも何かに挑戦を挑んでいます。


自分自身への挑戦だったり、人との関わり合いだったり。。。



最近、特に人との関わりの中でそれぞれ単独の出会いだった“点”が


つながり“線”となる。



そんな感覚があります。



でも、つながったその線をみていると、その時は気付けなかっただけで、

結局“点”というのはどこかへ必ず線でつながっているという事に気付きました。




たまたま今日古い太鼓を修理していました^^;




この太鼓、吉良町荻原という地区の古い大太鼓

大きさは2尺8寸あるケヤキの立派な太鼓です。


今回の主な修理は皮の張替。


よってまずは今ついている皮をはずします。




すると、やはり胴の中から
立派な文字が出てきました。



元治元年八月吉日。御太鼓所尾州平野小一郎作之


現在の名古屋市にあった平野さんという太鼓屋さん。


非常にこの方、腕の良い職人さんで

いつもすばらしい太鼓を目にします。


が、残念ながら今はこの太鼓屋さん残っていないのです。



そして、当店の銘も残っておりました。


大正十四年十月七日張替 岡崎本町三浦弥市 代金五十五円也。

90年前に歴代の彌市が
最後の張替をして以来90年ぶりの修理です^^;



そして、もうひとつこの太鼓には

別の銘が入っていたんです!


それが、こちら。





年月がたち、ボロボロで一部読めないですが

明治四十年八月十三日、

岡崎康生、三浦善市とあります。


実際紙の一部が破れて康生の生の字が消えてますが

間違いないと思います。



なぜ間違いないと分かるというと、数年前に修理をした太鼓から

以下のような銘が残っていたんです。



岡崎康生町太鼓屋善市



明治四十年額田郡岡崎康生 太鼓屋善市




この2つの太鼓は以前別の所から修理できた太鼓。



親父と、ああその昔は康生にも
太鼓屋さんあったんだね~と話してました。


ただ上の2つの太鼓は名前だけで名字の記載がされてなかった・・・



だから分からなかったのですが、


今回の太鼓修理で、この康生の善市さんが三浦善市であった!


という事があらたに分かったんです^^;



三浦善市という人がどういうルーツの人かは

わかりませんが、古い戸籍の中に善蔵という名前は出てきます。



同じ三浦性、本町からほど近い康生ということは

きっとつながりがある人である事は間違いないと思います。



この太鼓の記録を知るまでは、

康生の太鼓屋さんは三浦太鼓店とは関係ないまったく別の人が


やっていたと思っていたので、


今回の記録でまた“点”がひとつ“線”に結び付けてくれました^^;



現在に生きる私たち。


豊かになればなるほど、人の心は閉ざされていく。


本当の豊かさとはどこにあるのでしょうか。



どこか現代人は、“個”であったり“つながり”をおそれる傾向があるように
感じますが、


私たちは絶対に単一の“点”では存在すらできていないのだと

こうした歴史から私は学び、身近に感じることができます。



されば受け入れる。



個でなく一人でない事を知る。



次はどんな線と出会う事ができるのか
楽しみですヽ(^o^)丿